グイノ・ジェラール神父の説教



A 年

年間の主日

第2から第12まで




年間第2主日
年間第3主日
第4(主の奉献)(祝日へ)
年間第5主日
年間第6主日
年間第7主日
年間第8主日



   年間第2主日A年   2014年1月19日  グイノ・ジェラール神父

     イザヤ49,3-5,6  1コリント1,1-3  ヨハネ1,29-34

    私たちが生まれる前から、神は私たちを選び任命されました。 私たち一人ひとりが預言者イザヤの本の僕のように「主は母の胎にあるわたしを呼び 母の腹にあるわたしの名を呼ばれた」(イザヤ49,1)と言えるでしょう。 確かに私たちは「国々の僕」また「国々の光」となるために 神から選ばれた者です。 私たちに委ねられたこの使命は、洗礼を授けた司祭から頂いた小さなローソクの光によって示されています。 キリストと共に「世の光」となるために、聖霊の光が衣として私たちを完全に包んでいます。

    「キリスト・イエスの弟子と証人となるために」私たちが神によって召されていることを聖パウロが説明します。 私たちは「神の教会」です。 キリスト・イエスによって聖とされたので、私たちは神の恵みと平和に輝いている「聖なる民」であることを聖パウロは教えています。 コリント人への手紙の中で、聖パウロはこの真実を思い起こさせます。 というのはコリントの最初の信者たちは殆どが貧しい人であり、また奴隷でした。 聖パウロは彼らに次の様に書きました。「あなた方の間に、人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。 …ところが、神は世の無力の者、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1コリント1,26-28)と。 キリスト者となったこのような人たちに聖パウロははっきりと次のように断言します。「あなたたちはキリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる民とされました」と。 今日、聖パウロは私たちにもそれを宣言します。

    洗礼者ヨハネは、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として紹介します。 では「世の罪」とは一体何でしょうか? それは神の聖性と人間の尊厳に反する全てのものです。 世の罪とは、飢えや貧困や不正であり、またあらゆる姿で現れる暴力です。イエスは世の罪を取り除く人です。 そして、私たちの由来は、神の神秘の中心にあります。 そういう訳で、私たちの罪を担うことでイエスは父と私たちを和解させ、失われた神の子の尊厳を私たちに取り戻しました。 そして共同体の兄弟姉妹とも和解するように、イエスは私たちに聖霊を豊かに与えて下さいます。

    罪から清められ、和解され、私たちは益々イエスに似るように聖なる者とされました。  神の教会であると同時に、私たちは個人的にも共同体的にも、キリストの神秘的な体です。 私たち一人ひとりは、キリストとキリストの教会の代表者です。 これこそ私たちの使命と責任です。 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているのです」と聖パウロは言いました。 従って、生涯に渡って私たちはイエスに学ぶべきです。 洗礼を受けることは、自分の生き方を通してイエスを透けて見せる事です。 キリストのように考え、行い、話し、愛することは各信者の貴重な使命です。

   今日、自分を囲んでいる人々、彼らが神を信じていても信じていなくても、たとえ彼らが反対者であっても、私たちの行い、言葉、思いやり、悪と不正の否定によって、私たちはイエス・キリストの証人であることを示さなければなりません。 昔、聖パウロは、身分の卑しい者でつくられたコリントの共同体を信仰の眼差しで見て、その偉大さをはっきりと知らせ、宣言しました。 ですから自分自身に対して、共同体に対して、そして全世界に広がっている教会に対して 同じ信仰の眼差しを持って、その中に隠れている栄光と偉大さを見付け、味わい、宣言しましょう。 たとえ私たちが魅力的なキリスト者でなくても、世が造られる前から私たちは神によって選ばれた者です。 キリストは愛をもって、私たちがご自分の弟子、ご自分の証人であることを定めました。 「私たちの心に注がれた聖霊は」(ローマ5,5)私たちを聖とされました。 神の救いが地の果てまで至るために、聖霊は私たちを「国々の光」としました。 ですから、喜びに溢れて大きな愛で私たちを愛している神に感謝しましょう。 アーメン。



        年間第3主日A年   2014年1月26日  グイノ・ジェラール神父

          イザヤ8,23-9,3  1コリント1,10-13,17  マタイ4,12-23

    一目したところでは、イエスの教えは洗礼者ヨハネの教えの繰り返しのようです。 「悔い改めよ。 天の国は近づいた」と二人は宣言します。 しかし洗礼者ヨハネとイエスの間には、いくつかの大きな違いがあります。

    洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の川岸の人里離れたところで、特にユダヤ地方の南の荒れ野で神の言葉を告げます。 ヨハネはイスラエルの人々だけに話しました。 しかし、彼らが洗礼を受ける為にはヨハネの所に赴かなければなりません。 イエスは人々と出会うために、ガリラヤ地方の北の町や村を訪れながら神の言葉を告げます。 昔「ゼブロンとナフタリの地」と呼ばれていたガリラヤには、地中海とシリヤを結ぶ「ヴィア・マリス」という長いローマ街道があります。 商売のためにあらゆる国の人のキャラバンが、引っ切り無しにガリラヤを通行します。 異邦人たちは、神を信じるイスラエル人と接していたので、イエスは差別せずに皆に向かって話しました。

    預言者として洗礼者ヨハネは、神の名によって厳しくイスラエルの民に話しました。  イエスは、自分の名によって、しかも皆をびっくりさせる権威をもって話しました。 イエスは神の子ですから、当然、神のように話しました。

    洗礼者ヨハネは弟子たちに囲まれていて、皆がずっと同じ場所に留まります。 当時の習慣に従って、弟子になりたい人は自由に自分が好きな人を先生として選ばなければなりません。 イエスも弟子たちに囲まれていますが、イエスは弟子たちを選び、絶えず彼らと共にあちらこちらへ移動します。 マタイの話によると「イエスはガリラヤ中を回りました」(マタイ4,23)。

    洗礼者ヨハネとイエスは、神の言葉を宣言しながら改心への道を開きます。 ヨハネにとって改心することは道徳的な行いです。 改心するために人は、自分の内にある悪、自分の手、口、心から出てくる悪を処分する必要があります。 ヨハネによると、罪の暗闇は人の心を曇らせます。 罪を退ける人々にとっては、ヨハネの洗礼はただ一つの清めの儀式に過ぎません。

    イエスにとって、改心することは信仰の行いです。 自分たちの心の内に神の光を受け入れるようにイエスは人々を招きます。 神に向かう人は救いの光を受けるので、この光は必ず彼の心にある罪の暗闇を追い払うことが出来ます。 洗礼者ヨハネは、洗礼によって人を悪くする罪の暗闇を捨てることを強調します。 他方、イエスは、罪の暗闇を追い払う神の光を受け入れるように人々に説得します。 洗礼者ヨハネとイエスの教えの違いはここにあります。

    律法学者と違ってイエスは、皆が集まる会堂や大通りの木陰で座ったままでは教えていません。 むしろ彼は人込みに紛れて、人に呼びかけ自分に従うように、あるいは自分と共に歩き回る共同体となるように人を招きます。 更にイエスは、ファリザイ派の人たちと違って、絶えず群衆にもみくちゃにされることや急に接近されること、或いは体の不自由な人や病人に触れることをイエスは許します。

    世の光としてイエスは人々との触れ合いが大好きです。 イエスは預言者イザヤの預言を実現して「死の陰の地に住む者」を照らしに来られます。 つまりイエスは、神から遠く離れて生きてきた人々のすぐ傍に来られます。 この目立つイエスの態度は、私たちに考えさせます。 私たちは臆病な犬のようにうずくまっているでしょうか? それともイエスが私たちに先立って歩まれた「現代の異邦人の所に」行くように覚悟しているでしょうか?

  「わたしは命、道、真理である」とイエスは言いました。 真理と言うものは、固まったものではなく、生きている人であり、イエス・キリストご自身です。 わざとイエスが「命の道」として自分自身を紹介する理由は、私たちが動くように、人々と出会うようにさせるためです。 イエスは私たちに伴い、聖霊は私たちが言うべきことを教えます。 ですから、出発しましょう! イエスと共に人々に心の知恵を与え、罪を赦し、人を癒す命の言葉を至る所で伝え知らせる為に出発しましょう! アーメン。



    年間第5主日A年     2014 2 9日    グイノ・ジェラール神父

        イザヤ58,7-10  1コリント2,1-5  マタイ5,13-16

    「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と、一見したところでは塩と光のたとえが矛盾しています。 食べ物に味を与える為に塩は食べ物と交わって、その姿を消します。 反対に、光が役に立つ為には光を隠すことなく、はっきりと皆の前で目立たせることが必要です。 従ってキリスト者は塩のように自分自身を尽くして、謙遜に人々と交わり合うと同時に、光のようにイエスと共に生きる関係について明白な証しを与えなければなりません。

    私たちの信仰の証しなしには、この世は味を失い、段々悪くなります。 私たちの信仰の証しなしには、人々は神を見付けずに暗闇の中に留まってしまいます。 主イエスが死んで葬られた時、彼は墓の暗闇の中に消えたので、地の塩となりました。 そしてイエスが復活した時に、神の栄光を浴びて彼は世の光となりました。 その結果、主イエスにおける信仰の証しによって、すべての弟子たちは「地の塩」と「世の光」となっています。

    これによく気をつけましょう。 イエスは「あなたがたは地の塩と世の光となってください」とは言いませんでした。 むしろ「あなたがたは地の塩と世の光です」と断言しました。 事実、キリストを信じる人々は、彼と一つの体、一つの心、一つ霊となっています。 コリントの小さな共同体の信徒たちを励まし、力づける為に、聖パウロは同じこと宣言しました。 「あなたがたはキリスト・イエスに結ばれています」(1コリント1,30)、 「知らないのですか?  あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント 6,19)、 「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(1コリント 3,23)

    残念なことに、時々私たちの塩があまり味をつけないで、私たちの光が暗闇の中で混ざり輝いていないのです。 そのために私たちはどうしてもキリストとしっかりと結び合うことが必要です。 イエスの言葉を味わい、イエスの光の親密さに留まることを学ばなければなりません。 確かに、神の近くに生きる人は決して自分の塩味と光の強さを失う恐れがありません。 しかし神から離れる人は、暗闇に陥る危険性や信仰の土台と共に自分の希望を失う危険にさらされています。

    普通私たちは、食べ物の中に入っている塩と自分たちを包む光に注意しません。 しかし食べ物に味付けがない時、また急な停電の時にだけ私たちはその不在を感じて、塩と光の必要性を理解します。 忠実で、謙遜なキリスト者についても同じように言えるでしょう。 普段、私たちは彼らに気が付いていませんが、彼らが居なくなった時に彼らの信仰の風味とその信仰の篤さを感じて、私たちにとって彼らがどれ程必要かということを悟ります。

   「地の塩」であり「世の光」である私たちが、尊敬をもって謙遜に人々を愛すことは重大です。 福音宣教は決して強制的な征服ではありません。 そうであれば、人々に吐き気を催させずに「地の塩」の使命をどのように果たしたら良いのでしょうか? 人々の目を眩ませることなしに「世の光」の役割をどのように実現したら良いのでしょうか? イエスは今日の福音を通して、その答えを与えます。 「人々が私たちのよい業を見なければなりません」と。 それはとても簡単です。 また預言者イザヤはそれを詳しく教えています。 「飢えた人々に食べさせる事、さ迷う貧しい人に家を与える事、裸の人に服を与える事、願っている人に助けを与える事、支配しない事、咎めない事、悪い言葉(悪口)を言わない事」です。

    地の塩として私たちの使命は次のようです。 憐れみに満ち、謙遜で柔和な人であり、平和と正義のために働き、そして信仰と希望をもってすべての試練と迫害を耐え忍ぶ人であるのです。 更に、世の光として私たちの生涯は神を啓示することによって、私たちは神の愛する子供であり、キリストの弟子であることをはっきりと示さなければなりません。 ですから、このプログラムを実現しようと急ぎましょう。 そうすれば、私たちのよい業を見て、周りの人々は神に感謝することが出来るのです。 アーメン。



     年間第6主日A年   2014216日  グイノ・ジェラール神父

         シラ書15,15-20  1コリント2,6-10  マタイ5,17-37

   ある日、弟子たちはイエスに次のように言いました。 「実にひどい話だ。 だれが、こんな話を聞いていられようか」(ヨハネ6,60)と。 今日、私たちはイエスに同じように言いたいのです。 実に神の掟を守るのは明らかに難しいです。 イエスが私たちに願うことは非常に実行しにくいので、私たちは落胆します。 それにも拘わらずイエスは「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11,30)と主張します。

   キリストが言われたことを理解するために、昔、シラと言う賢い人が小さな道を提案しました。 つまり、私たちは生きている間に、善と悪、命と死、幸福と不幸のどちらかを選ばなければなりません。 愛するため、そして美しく役に立つ良いものを選ぶために、私たちはいつでも自由です。 神がモーセに授けられた掟は、私たちに「成すべき事と避けるべき事」を教えています。 神が示された道から離れると私たちは迷い、更に命を失う危険にさらされるでしょう。 ですから、イエスが要求される厳しい態度は、私たちが幸せに生きる為の切迫した呼びかけだと理解しましょう。

  「神が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5,48参考)と言われたイエスは、モーセの律法に特別な要求を加えました。 それは神の子として生きることこそ、私たちの使命です。 神のように行うことによって、私たちは神の似姿に創造されたことを表しています。 イエスの気難しい言葉は、私たちに目的地を示しながら、どのようにしてそれに辿り着くことが出来るかと言う方法も与えます。 確かに神が私たちを愛しているように、私たちも愛さなければなりません。 聖パウロがコリント人への手紙の中で話している知恵と命を私たちが得るように、イエスの言葉がとても役に立ちます。 なぜなら、私たちが識別を持って全てを行うようにこの言葉が私たちを誘っているのです。

    イエスは特に、私たちが出会う全ての人を尊敬するように願っています。 この人たちも神に愛されている人たちなので、私たちが彼らを傷つけることで神ご自身を傷つけることになります。 そういう訳で、イエスは私たちに和解と赦しと尊敬の道を提案しています。 なぜなら隣人への尊敬は、神に栄光を与えると同時に、私たちに神の国の門を大きく開くからです。

   もし良い人となるために、ただ十戒をきちんと守ることだけで十分であれば、私たちはきっとそれを実現できるでしょう。 しかし、もし良い人となるために、はかりごとなしの行い、敵への愛、また願った以上のものを与えること、更に絶えず赦すことであれば、それらは私たちが聖人となることを要求しています。 これこそ、かつて神がモーセを通して願ったことです。 「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」(レビ19,2参考)と。 聖ペトロも第1の手紙の中で、この大切な願いを思い起こさせます。 「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(1ペトロ1,15)。 これこそ、今日イエスが私たちに教えている知恵の道です。

   しかし、誘惑や願望なしに私たちは生きていけるのでしょうか。 不正・裏切り・偽りの約束を前にして、私たちは苛立たずにいることが出来るでしょうか。 私たちはむかつく人を見て、その人を傷つけるような失礼な言葉を吐かずにいられるでしょうか。 絶対に和解したくない人と和解するために、何をしたらよいでしょうか。 イエスはすべての答えを与えませんが、愛と知恵と正義の道を私たちに教えています。 この道を通れば、聖霊は良い事と正しい事を行うために、 恵みと必要な識別を必ず与えるでしょう。

    このようにイエスが指し示す聖性と命の道を歩む私たちは、きっといつか躓く時があるでしょう。 しかし私たちが歩み続ける為に、そして無事に天の国の門に辿り着く為に、イエスは忠実にいつも私たちの傍におられます。 ですから、自分たちの弱さと貧しさをしっかり自覚して、強固な信頼を持って、神の力強い腕を私たちの揺るぎない支えとしましょう。 神は恵みに満ち、慈しみ深く、憐み深い神であり、終わりまで忠実に私たちに伴われます。 アーメン。



        年間第7主日A年    2014223日  グイノ・ジェラール神父

          レビ19,1-217-18  1コリント3,16-23  マタイ5,38-48

    第1の朗読は私たちに神の言葉を思い起こさせます。 「わたしは聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」と言われた言葉にイエスはおうむ返しに答えます。 「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい」と。 今日もまたイエスは旧約聖書の掟に新しい息吹を与えようとします。 イエスは私たちが、律法を細かく実現する者ではなく、むしろ神の無限の愛にぴったり合致する子供であるように望んでいます。 勇気を持って愛に生きることを実現するよりも、神の掟を守ることの方が容易です。

    私たちが愛に基づいた自由を示す為に、成すべき事と避けるべき事を定めた律法をのり越えることをイエスは願っています。 一人ひとりが自分の行いの責任を果たすようにとイエスは望んでいます。 確かに掟を守ることは正しいことですが、愛を持って隣人への愛と尊敬を示しながら、この掟を実現する方がもっと望ましいのです。 モーゼの律法が要求することを廃止せずに、イエスはこの要求の中にある自由の息吹を私たちに発見させたいのです。 「安息日は、人のために定められた。 人は安息日のためにあるのではない。」(マルコ227)とイエスは断言しました。

    天の父の愛する子供となるために、イエスの勧めは非常に役に立ちます。 私たちを完成させようとしている神秘について、それに関して私たちの生き方について反省する必要があります。 この目的で自分の内に留まる神の神秘を味わうように聖パウロが私たちを招きます。 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」のです。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているのです」(ローマ5,5)と聖パウロは言いました。 私たちはこの愛を発見し、この愛に生きて行かなければなりません。 確かに聖パウロが言ったように「世界も、生も死も、現在と未来も、一切はあなたがたのもの。 あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」

    この世では皆が自分の権利を守り、また自分の力を現そうとしています。 と言うのは、強い人はいつも尊敬されていますが、弱い人が軽蔑され、いじめられ、結局見捨てられる者となります。 しかし、イエスは自分の人生を成功するために弱さや傷を受け易い道を提案します。 「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」とか「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とイエスは強く勧めます。

    この世では強い人たちの掟で全てを納めるので、もしそれに抵抗しないなら、どのようにして自分たちが、圧迫され侮辱されないようにすればよいのでしょうか。 たとえば学校の入り口で揺すられる弱い子供たちのことを思い出しましょう。 おびやかす少年たちを恐れて彼らは自分のお金を渡し、また万引きをさせられることもあります。 最初の暴力の誘いに逆らわない子供も大人も、きっともっと暴力的な攻撃を受ける可能性があります。 ですから、非暴力主義の人でありながら、同時に尊敬される人となるように何をしたら良いでしょうか。 確かに裁判の時にイエスが頬を打たれた時、彼は他の頬を向けませんでした。 むしろ自分を打った人に対して、権威を持つ言葉を返しました。 「もし、正しいことを言ったのなら、なぜわたしを殴ったのか」(ヨハネ18,23)。

    はっきり認めましょう。 福音のメッセージを受け止めるのは容易ではありません。 聖パウロが言ったように「この世の知恵は、神の前では愚かなものです」(1コリント319)。 人々にとってはそれが愚かなものであっても、キリストが願うことは、神の知恵の内にしか理解できません。 イエスは「敵がないようにしなさい」とは言わずに、「あなたの敵を愛しなさい」と言います。 愛されても悪い者は悪い人に留まり、敵はいつも自分の敵です。 そこでイエスは私たちに勧めます。 「見よ、天の父がどれほど完全であるかを見なさい。 父はご自分を愛さない人々を限りのない愛で愛されるからです。 あなたがたも同じようにしなさい」と。

    暴力や妬みや支配を自分の全生涯の土台とした人々を神は深い愛で包みます。 神は復讐せず、罰も与えずにずっと赦す神です。 神は、私たちの復讐の態度を退けます。 ただ神はご自分の愛を信じてその愛に生きることを私たちに強く勧めます。 この愛で生きるなら、必ず私たちがこの世を人間らしく美しく変化させることが出来ます。 ですから、キリストに従ってこの世を救う神の愛の証人となりましょう。 アーメン。



       年間第8主日A年   201432日    グイノ・ジェラール神父

            イザヤ49,14-15  1コリント4,1-5  マタイ6,24-34

    「自分の命のことで思い悩むな」とイエスは願っています。 このキリストの願いはとても無邪気だと思われます。 特に経済的な危機とぶつかっている私たちの社会に対して、この願いは挑発的なものです。 もし失業者たち、或いはリストラされる人々や自分たちの子供の未来に対して心配する両親に「思い悩むな。 ただ神の摂理に希望をおきなさい」と言うなら、彼らは皆あなたをあざ笑い、あなたは現実を分かっていない人だと言われるでしょう。

    よい知らせを伝えるイエスは、今日最も大切なものを示そうとします。 イエスにとっては、ある意味で思い悩みに取りつかれた人は、奴隷状態に落ち入っている人です。 それは丁度、人が富とお金に囚われているように。  富が簡単に危険な偶像となることは、誰にでも分かります。 この意味でイエスは金持ちであることを非難しませんが、むしろ富とお金の虜になることを厳しく咎めます。 従って、心配のせいで、眠れない、食べられない、希望を持つ力を失った人は、思い悩みの奴隷になっています。

      先ず、イエスは私たちの本能的な態度を批判します。 私たちは、いつも取るに足りない事のために心配しています。 この態度は、私たちが神を信頼していないことをはっきりと表します。 神を信頼する事、それは決して私たちの計画の実現のために、神を利用する訳ではありません。 むしろ神を信頼する事は、人々との出会いや日常生活の出来事を通して、神が自由にご自分のご計画を行うことを可能とすることです。 神の摂理は人間の安全さと成功の確かさです。 私たちは神の計画に協力しなければなりません。 そういう訳で私たちが良い選びをするために、イエスは「何よりもまず、神の国と神の義を求める」ことを願っています。 それは「願っていても、いなくても必要なものはみな加えて与えられるためです」。

     私たちは悩む理由がたくさんあります。 恐れがそれを生み出します。 今の時代の人々は全てを保証する習慣をもっています。 家、車、持ち物、人生でさえ保証をとるのは当然です。 イエスはそれを非難はしません。 私たちが生きるために必要なものを自分の人生の目的とする事、そして持っている物に自分の安全を置く事を、イエスは厳しく非難します。 自分の持ち物の内に安心を求めることは、キリストにとっては偶像礼拝と等しいことです。 今日イエスは私たちに次の様に言いたいのです。 「信仰の薄い者たちよ。 どうして異邦人の様にふるまうのですか? あなたたちは全てに対して悩み、小さな出来事を大袈裟にする事、それらはあなたたちがまだ神を知っていない事をはっきりと表しているのです」と。

   神を知っている人は明日を恐れません。 その人は「その日の苦労は、その日だけで十分である」と知っていますから。 神を知っている人は 神が自分を忘れることも、見捨てる事も出来ないことをよく知っています。 その人は自分の名は 神の手のひらに刻まれていることをよく知っています(イザヤ49,16)。 むしろ神を知ろうとしない人、或いは神に対して信頼を示すことを拒む人は、この世紀の病気である心筋梗塞やうつ病や自分の中に引きこもる事や自殺する危険をはらんでいます。

    預言者イザヤは、神が母親の心を持って私たちを愛していることを啓示しました。  「たとえ女たちが自分の産んだ子を忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と神が私たちに打ち明けました。 そしてイエスは、神が父親の愛で私たちを愛していることを教えました。 預言者イザヤとイエスは、私たちの人生は神の母性と父性の手の中に安全に置かれていることを思い起させます。 実際にずっと空の鳥の世話をされる神は、この鳥よりも私たちを愛しておられます。 ご自分が創造された花よりも、神は私たちを美しい者としてご覧になります。 創られた全てのすぐれた被造物を超えて、私たちの存在ははるかに神にとって一番大切です。 ですから、思い悩むことは全く役に立ちません。 神が私たちの幸せを望み、私たちの存在を貴重な宝物として守っておられるからです。

   その理由ですべてのよいものが私たちに与えられるように、イエスは先ず神の国を探し求める事を要求します。 自分の持ち物を握りしめるよりも、また、それらを失うことを恐れるよりも、むしろ神の愛と保護を信じて、穏やかで落ち着いた人となりましょう。 生涯に渡って神の父性と母性の愛に応えるために、揺るぎない信頼を示して、神を愛しましょう。 アーメン。




                         トップページに戻る